ツァラトゥストラ
第一部
ツァラトゥストラの序説
人間のなかの賢者たちにふたたびその愚かさを、貧者たちにふたたびおのれの富を悟らせてよろこばせたい。
「いや」と、ツァラトゥストラは答えた、「わたしはわずかな施し物などはしません。それほどまでにわたしは貧しくないのです。」
こうして霊魂は、肉体と大地から脱却できると信じたのである。おお、この霊魂自身のほうが、もっと瘠せて、醜く、飢えていたのであった。そして残酷なことをするのが、こうした霊魂の快楽であった!
あなたがたの霊魂も、貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸なのではあるまいか?
まことに、人間は汚れた流れである。汚れた流れを受けいれて、しかも不潔にならないためには、われわれは大海にならなければならない。
「わたしの幸福は何だろう!それは貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」
わたしの善、わたしの悪に、わたしはなんと退屈していることだろう!
だが正義の人は、燃えあがり、燃えつきる者だ!
同情とは、人間を愛する者がはりつけにされる十字架ではないのか?
あなたの罪が天の審きを求めて大声をあげているのではない。叫んでいるのはむしろあなたがたの自己満足だ。あなたがたの罪のけちくささそのものだ!
わたしが愛するのは大いなる軽蔑者たちである。なぜならかれらは大いなる尊敬者でもあり、かなたの岸へのあこがれの矢であるからだ。
わたしが愛するのはあまりに多くの徳を持とうとしない者だ。一つの徳は二つの徳にまさる。なぜなら一つの徳は、宿命がひっかかる、より大きな結び目だからである。
わたしが愛するのは、その魂が気前よくできている者だ。ひとから感謝を求める気持もなく、返礼などを知らない者、というのは、彼はつねに贈物をするのであって、自分のために何ひとつ残して置こうとしないからである。
わたしが愛するのは、自由な精神と自由な心情の持主だ。かれの頭脳はたんにかれの心情の臓腑にすぎない。そして心情はかれを没落に駆りたてる。
彼らに誇りを与えているもの、それを彼らは何と呼んでいるか?教養と呼んでいる。
悲しいかな!やがて人間がもはやその憧れの矢を、人間を超えて放つことがなくなり、その弓の弦が鳴るのを忘れる時がくるだろう!
わたしはあなたがたに言う。舞踏する星を産むことができるためには、ひとは自分のなかに混沌を残していなければならない。わたしはあなたがたに告げる。あなたがたはまだ混沌を自分のなかに持っていると。
悲しいかな!人間がもはやなんらの星を産むことができなくなると時がくる。悲しいかな!もはや自分自身を軽蔑することのできないもっとも軽蔑すべき人間の時が来る。
彼らはやはり隣人を愛している。隣人にからだをこすりつける。温暖が必要だからである。
かれらは用心深くゆったりと歩く。石につまずく者、人間につまずく者、人間に摩擦を起こす者は馬鹿である!
少量の毒をときどき飲む。それで気持のいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。それによって気持よく死んでゆく。
かれらはやはり働く。なぜかといえば労度は慰みだから。しかし慰みがからだにさわらないように気をつける。
かれらはもう貧しくもなく富んでもいない。どちらにしてもわずらわしいことだ。誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう?誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう?どちらにしてもわずらわしいことだ。
牧人はいなくて、畜群だけだ!だれもが平等だし、また平等であることを望んでいる。それに同感できない者は、みずからすすんで精神病院にはいる。
「……わたしはこれらの耳に説くための口でない。……」
「……もともとわたしは鞭とわずかな餌で踊りを仕込まれた動物以上のものではないのだ。」
「いや、違う」、ツァラトゥストラは言った、「あなたは危険をおのれの職業とした。それはすこしも卑しむべきことではない。いまあなたはあなたの職業によってほろびる。……」
この『善くて義しい者』たちを見るがいい!かれらがいちばん憎む者はだれか?価値を録したかれらの石の板を砕く者、破壊者、犯罪者だ、――しかし、かかる者こそ創造者なのだ。
創造者の求めるものは道づれであって、死体ではなく、また畜群や信者でもない。創造者は相共に創造してくれる者を求める。かれらは新しい価値を新しい石の板にしるす者である。
創造者の求めるのは道連れであり、相共に刈りいれをしてくれる者である。創造者の眼前ではすべてが熟して刈り入れを待っているから。しかしかれの手もとには百の利鎌がない。そこでかれは穂をむしりちらして、向っ腹をたてているのだ。
見よ!一羽の鷲が空に大きな輪を描き、その鷲に一匹の蛇が懸かっていた。それは鷲の獲物ではなく、友であるように見えた。……「太陽のもとでのもっとも誇りの高い動物と、太陽のもとでのもっとも賢い動物――かれらは様子をさぐりに出てきたのだ。……危険な道をツァラトゥストラは行く。わたしの動物たちよ、わたしをみちびいておくれ!」
ツァラトゥストラはこう言ってから、あの森の聖者の言葉を思い出し、ため息をつき、われとわが心にむかってこう言った。
「わたしはもっと賢くありたい!わたしはわたしの蛇のようにどこまでも賢くありたい!
だがわたしは不可能なことを願っているのだ、それならわたしはわたしの誇りに願おう、誇りがつねにわたしの賢さとつれだって言ってくれるようにと!
そして、いつかわたしの賢さがわたしを見捨てるなら、――ああ、賢さは飛び去ることを好む!――わたしの誇りが、そのときは、わたしの愚かさとともに空翔けてくれるようにと!」
三段の変化
この巨大な竜の名は「汝なすべし」である。だが獅子の精神は「われは欲する」と言う。……鱗の一枚一枚に「汝なすべし」が金色にかがやいている。
千年におよぶもろもろの価値が、この鱗にかがやいている。……
「いっさいの価値はすでに創られてしまっている。――いっさいの価値――それはこのわたしなのだ。まことに、もはや『われは欲す』などはあってはならない!」こう竜は言う。
わが兄弟たちよ!なんのために精神において獅子が必要なのであろうか?重荷を背負い、あまんじ、畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?
新しい価値を創造する、――それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること――これは獅子の力でなければできない。
自由を手に入れ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。
新しい価値を築くための権利を獲得すること――これは辛抱強い、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。
……
幼子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しい始まりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。
徳の講壇
よい眠りを、人々は求めたのであり、そのために阿片の諸徳を求めたのだ!
世界の背後を説く者
その神は人間であった。しかもたんなる人間と自我の貧弱なひとかけらであった。わたし自身の灰と火影から、それは出てきたのだ。この幽霊は。まことに!それは彼岸からやって来たのではなかった。
そこでどういうことになったというのか?わが兄弟たちよ、わたしは自分を、この悩める自分を克服した。わたしはわたしの灰を山上に運んだ。もっと明るい炎をわたしはつくりだした。すると、見よ!幽霊はいなくたってしまった!いまとなっては、快癒したわたしには、幽霊を信ずるのは、むしろ悩みであり苦しみだ。いまとなってはそれはむしろ悩みであり、屈辱だ。わたしは世界の背後を説く者たちに対して、こう言いたい。
悩みと不可能、――それが一切の世界の背後をつくったのだ。そして苦悩に沈湎する者だけが経験するあのつかのまの幸福の妄想が、世界の背後をつくりだしたのだ。
疲労がひとっ跳びに、命がけの離れ業で、究極のものに到達しようとする。それだけがもうせいいっぱいの意欲である、このあわれな無知な疲労感、これがすべての神々を生み出し、世界の背後をつくったのだ。
身体に絶望したのは身体であったのだ、
地上に絶望したのは身体であった、
兄弟たちよ、あらゆる物のなかで最も奇妙なものが、最もよく証明されているのではなかろうか?
そうだ、この自我のことだ。それは矛盾し混乱したすがたを呈しているとはいえ、自己の存在については、このうえなく誠実に語っている。……
そしてこの最も実直な存在、自我――それは、身体について語っている。自我はたとえ詩作し夢み、こわれた翼で飛ぶときでさえもやはり身体を欲している。
この自我はますます誠実率直に語ることを、学ぶだろう。そしてそれが学べば学ぶほど、ますますそれは身体と大地を讃え、敬うようになるだろう。
……もはや頭を天国めいた事物の砂のなかにつっこまないで、それをのびのびと自由にあげることを教えよう。大地に意義をあたえるところとことの、大地の頭だ!
わたしは人間たちにひとつの新しい意志を教えよう。これまで人間がめくらめっぽうに歩いてきた、この地上の道を自覚し、すすんで意志することだ。
かれらのみじめさから、かれらは逃げ出そうとしたのだ。だが星はあまりに遠かった。そこでためいきが出た。「おお、別の存在と幸福にこっそり忍び込めるような、天国への道があればいいが!」と。――そこでかれらはかれらの抜け道と、血を思わせる飲み物を発明した!
願わくは、病人たちが癒えた者となり、克服する者となり、より高い身体をわがものとするように!
わが兄弟たちよ、むしろ健康な身体の語る声に聞くがいい。これはもっと誠実な、もっと純粋な声である。
健康な身体、完全な、しっかりした身体は、もっと誠実に、もっと純粋に語る。それは大地の意義について語るのだ。
身体の軽蔑者
身体はひとつの大きな理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。戦争であり平和である。畜群であり牧者である。
あなたが「精神」と呼んでいるあなたの小さな理性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。
……それは「わたし」と言わないで、「わたし」においてはたらいている。
感覚は感じ、精神は認識する。それらのものは決してそれ自体で完結していない。ところが感覚も精神も、自分たちがすべてのものの限界であるように、あなたを説得したがる。かれらはそれほどまでに虚栄的なのだ。
感覚も精神も、道具であり、玩具なのだ。それらの背後にはなお本物の「おのれ」がある。この本物の「おのれ」が、感覚の眼をもってたずねている。精神の耳をもって聞いているのである。
あなたの最善の智慧のなかよりも、あなたの身体のなかに、より多くの理性があるのだ。
喜びの情熱と苦しみの情熱
我が兄弟よ、あなたがひとつの徳を持ち、それがあなた自身の徳であるなら、それは他の何びととも共有すべき性質のものではないはずだ。
もちろんあなたはその徳に名前をつけ、愛撫したいと思うだろう。耳をひっぱったりして、ふぜけてもみたいと思うだろう。
だが、どうだろう!そうした名前をつければ、それは民衆と共通のものとなり、あなたはあなたの徳を持ちながら、民衆となり畜群となってしまう!
むしろこう言うべきなのだ。「わたしの魂に苦しみやよろこびを与えるもの、わたしの内臓の飢えでもあるものは、言葉に言いあらわしがたく、名前を持たないものなのだ」と。
あなたの徳は馴れ馴れしい名前で呼ばれるには、あまりにも高貴なものであらねばならない。そして、もしあなたがそれについて語らなくてはならないときは、口篭り、どもることになってもなんら恥じることはない。
どもりつつ、こう言いなさい。「これがわたしの善だ。わたしはこれを愛する。わたしにはすっかり気にいっている。わたしの欲する善はこういったものしかないのだ。」
わたしはそれを神の律法としては欲しない。わたしはそれを人間の間の規約、必要物としては欲しない。わたしはそれを超地上的世界、天上の楽園への道しるべにはしたくない。
わたしが愛するのは大地の徳である。そこには利口な駆け引きはあまりなく、万人に共通な理性はもっともすくない。
だがそれは鳥のように、わたしのところに来て、巣をつくった。それゆえにわたしはそれを愛し、胸に抱く。――いま、それは、わたしのところで、黄金の卵をかえそうとしている」と。
かつてあなたは、あなたをくるしめるさまざまの情熱を持ち、それを悪と呼んだ。しかしいまはそれがすべて徳なのだ。苦しめる情熱から生まれたものだ。
あなたはあなたの最高の目的を、これら苦しめる情熱にふかく植えつけた。そこでかれらは徳とかわり、よろこびの情熱となった。
結局、すべてのそうした苦しめる情熱は徳となり、すべての悪魔は天使となったのだ。
かつてはあなたはあなたの地下室に野性の犬どもを飼っていた。しかしついには犬どもは子鳥に変わり、愛らしい歌姫となった。
あなたの毒から、あなたは香油を醸し出したのだ。
そしてもうこれからは、あなたから何の悪も生じないだろう。生じるとすれば、あなたの徳の相互の間の葛藤から生じる悪だけだ。
わが兄弟よ、めぐりあわせがよければ、あなたはたった一つの徳を持つだけですむだろう。そのときは、あなたは身も軽く、橋を渡って行くだろう。
多くの徳を持つということは、りっぱなことだ。だがそれは重大な宿命である。そのために砂漠におもむいて、みずからを殺した者がすくなくなかった。かれらは徳どうしの戦争と戦場であることに疲れ果てたのである。
競争心(Jealous)は恐るべきものである。もろもろの徳もまた、負けじ魂(Jealous)によって破滅することがある。
負けじ魂(Jealous)の炎に身を包まれた者は、ついにはさそりのように、われとわが身に毒の針をさす。
人間は克服されなければならない或る物である。だからあなたはあなたの徳たちを愛しなければならない。――なぜなら、あなたは徳たちによってほろびるであろうから。――
蒼白の犯罪者
かれが自分自身をさばいたのは、かれの最高の瞬間であった。こうした崇高な存在をふたたびその低劣さにひきもどしてはならない!
かくも自分自身をもてあまし苦しんでいる者にはなんの救済もない。すみやかな死以外には。
あなたがた裁判官よ。あなたがたがかれを殺すのは、同情からでなくてはならない。かれへの復習であってはならない。そして殺すことによって、あなたがた自身が、およそ生きるということの意味を是認できるように努めなけれなならない!
あなたがたはその犯罪者を「敵」と言うべきであって、「悪人」と言うべきではない。「病人」と言うべきであって、「悪漢」と言うべきではない。「愚か者」と言うべきであって、「罪びと」と言うべきではない。
緋色の服に威儀をただした裁判官よ、あなたにしても、これまであなたが心のなかで行った一切を、口に出して大声で言うなら、誰もが叫ぶだろう、「このきたならしい毒虫め、踏みつぶせ!」と。
しかし、思考と行為とは別のものである。さらに行為の残す心像は別のものである。これらは、因果関係で結ばれているのではない。
この蒼ざめた人間のばあいもそうだ。ひとつの心像が、かれを蒼ざめさせているのだ。かれが、その行為をあえてしたとき、かれにはその行為をやってのける力があった。しかし、その行為をなしおえたとき、かれはその心像に堪えられなくなった。
それからはかれは、つねに自身をその一つの犯行の行為者として見るようになった。わたしはこれを錯乱と呼ぶ。かれは例外を、誤っておのれの本質と考えたのだ。
結局、このような人間は何なのか?それは最も深い意味で病気のかたまりである。その病気が、知能を使って、外界に手をのばすのだ。そこに獲物を求めようとするのだ。
この身体が病み、悩み、渇望しているのだ。その病み、悩み、渇望するものを、かのあわれな「魂」が自己の立場で読みとったのだ。――殺人の快楽、刃物のよろこびへの渇望も、そのような解釈なのだ。
こうした病気に現代でおちいる者は、現代で悪とされている悪に襲われる。かれは自分に苦しみを与えているものによって、他人に苦しみを与えようとする。
あなたがたはわたしに言うだろう。そんな考えは、われわれの善人に被害を及ぼすものだ、と。だが、あなたがたの善人が、わたしにとって、何だろう!
あなたがたの善人が持つ多くのものが、わたしに嘔吐をもよおさせる。かれらの悪が嘔吐をもよおさせるのではない。むしろわたしは願う。これらの人々に錯乱の狂気があったらば、と。あの蒼ざめた犯罪者のように、みずから破滅する、あの狂気が!
まことに、わたしは願う。そうした狂気が、真理とか忠実とか正義とか呼ばれるものとなればいいが、と。だが善人たちは、ただ長生きをし、あわれむべき快適な生活をするために、徳をもっているのだ。
わたしは奔流のほとりの欄干だ。わたしをつかむことのできる者は、わたしをつかむがいい!だが、わたしはあなたがたの松葉杖ではない。――
読むことと書くこと
すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。
他人の血を理解するのは容易にはできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む。
読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者がつづいていれば、――精神そのものが腐りだすだろう。
誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。
かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。いまでは賤民にまでなりさがった。
血をもって箴言を書く者は、読まれることを求めない。暗誦されることを望む。
顧慮することなく、嘲笑的で、荒々しくあれ、――と知恵はわたしたちに要求する。わたしの知恵は女性である。いつも戦士だけを愛する。
あなたがたはわたしに言う、「人生の重苛は耐えがたい」と。しかし人生はあたがたがに、朝にはその矜持を、夕べにはその諦念を用意しているではないか?
人生の重苛は耐えがたい、とはいえ、そんなにめそめそした様子は見せないでくれ。わたしたちはことごとく重苛を担う力のある、けなげな、牡あるいは牝の驢馬なのだ。
そうだ、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れたからではない。むしろ愛することに慣れたからだ。
愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある。
怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!
わたしは歩くことをおぼえた。それからわたしはひとりで歩く。わたしは飛ぶことをおぼえた。それからは、わたしは飛ぶために、ひとから突いてもらいたくなくなった。
山上の木
「わたしがこの木を両手でゆすぶろうとしても、わたしにはできまい。
しかしわれわれの目に見えない風は、この木を苦しめ、どうにでも曲げてしまう。われわれは目に見えない手によって、ひどく曲げられ苦しめられるものだ。」
人間は木と同じようなものだ。
高く明るい上の方へ、伸びて行けば行くほど、その根はますます力強く、地のなかへ、下のほうへ、暗黒のなかへ、深みのなかへ、――悪のなかへとのびて行く。
「いろんな魂を見抜くためには、こちらも同じだけのものをあらかじめこしらえておかねばならない。」
あなたはまだ自由ではない。あなたは自由を追い求めているのだ。その追求があなたを不眠におちいらせ、あなたを過度に目覚めさせているのだ。
あなたは自由な高みに到達しようとしている。あなたの魂は星空を渇望している。しかしあなたの低級な衝動も、自由を渇望している。
あなたの飼っている野良犬どもも自由を欲している。あなたの精神があらゆる牢獄を打ち破ろうと努めるとき、この狂暴な犬どももよろこんで、あなぐらのなかで吠えている。
あなたはわたしの見るところ、まだ自由を空想している捕われ人にすぎない。ああ、こうした捕われ人の魂は才智を増してくる。しかし同時に、狡猾に、低劣になる。
自由を手にいれた精神も、さらに自己を浄化しなければならない。多くの牢獄と腐敗物がかれのなかに残っているのだ。かれの眼はさらに純粋にならなければならない。
そうだ、わたしはあなたの危険を知っている。わたしの愛と希望にかけて、わたしはあなたに切願する。あなたの愛と希望とを投げ捨てるな!
あなたはまた、自分が高貴であることを感じている。また、あなたに恨みをふくみ、悪意の視線を送る者も、あなたが高貴であることを感じている。だが、高貴な者は、万人にとっての邪魔者だということを知らなければならない。
善人たちにとっても、高貴な者は、邪魔者なのだ。そしてかれらが高貴な者を善人だと呼ぶ場合でも、かれらはそれによって高貴なものを骨抜きにしようとしているのだ。
高貴な者は新しいものを求め、ひとつの新しい徳を創造しようとする。善人のほうは、古いものを愛し、古いものが保持されることを願うものだ。
しかし、高貴な者の危険をいうなら、それは善人となることより、むしろ鉄面皮な者、冷笑する者、否定する者となることだ。
ああ、わたしは自己の最高の希望を失った高貴な人々を知っていた。そのときかれらは一切の高い希望を誹謗する者と変わった。
そのとき、かれらは束の間の歓楽を追って、厚顔無恥に生き、その日暮し以上の目標を立てることをやめた。
「精神もまた欲情の一種だ」――と、かれらは言った。こうしてかれらの精神の翼は破れた。ここに精神は這いまわり、噛みつき、汚す虫けらとなった。
かつてはかれらも英雄になろうとした。かれらは、いまでは放蕩者でしかない。かれらにとって、英雄は恨みと恐怖の対象だ。
しかし、わたしはわたしの愛と希望の名において、あなたに切願する。あなたの魂のなかの英雄を投げ捨てるな!あなたの最高の希望を聖なるものとして保ってくれ!
死の説教者
かれらは病人なり老人なり死骸なりに出会うと、すぐ言う。「これが人生の反証だ!」
だがそれはかれら自身に対する反証、人間存在のたんなる一面しか見ないかれらの眼に対する反証にすぎない。
劇務や、スピードや、新奇なものや、異常なものをこのむあなたがた全部――あなたがたは自分自身の始末に困っているのだ。あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。
あなたがたが、もっと人生を信じていたら、これほど瞬間に身をまかせることはあるまい。だがあなたがたは、待つことができるだけの充実した内容を、自己のなかに持ち合わせていないのだ、――それで、怠惰にさえもなれない!
戦争と戦士
わたしはあなたがたの心の憎しみと妬みについてよく知っている。あなたがたは憎しみや妬みなどは知らぬというほど偉大ではない。だから、それらを恥と思わないほどの偉大さにまで達するがいい!
たとえあなたがたが認識の聖者とはなりえなくとも、せめて認識の戦士となってほしい!戦士は聖者の伴侶であり、さきがけだ。
わたしは多くの兵卒を見る。しかし、わたしの見たいのは多くの戦士だ!かれらが着ているものは、一律に制服と呼ばれている。そのなかに包まれているものまで、一律であってはならなぬ!
たとえあなたがたの思想が敗北しても、あなたがたの思想の誠実が勝利を得なければならない!
ひとは弓矢を所持してのみ、沈黙して、静かに坐っていられる。さもなければ饒舌に堕し、いがみあう。あなたがたの平和は、勝利の平和であれ!
あなたがたは言う、よい目的は戦争をさえ神聖にする、と。わたしはあなたがたに言う。よい戦争はあらゆる目的を神聖にする、と。
あなたがたの同情ではなくて、あなたがたの勇敢さこそこれまで不幸な目にあった人たちを救った。
人々はあなたがたを無情だと言う。しかしあなたがたの愛情こそほんものである。
あなたがたは醜いだろうか?よし、わが兄弟たちよ!それなら醜い者のつけるべき外套、すなわち崇高さを身にまとうがいい!
しかしあなたがたの魂が偉大になると、あなたがたの魂が傲りはじめる。あなたがたの崇高さのなかに、悪意が宿る。わたしはあなたがたをよく知っている。
悪意という点で、傲り高ぶる者と弱者が仲良しになることがある。かれらはおたがいを誤解しているのだ。わたしはあなたがたをよく知っている。
あなたがたは、憎むべき敵をのみ、持つべきである。軽蔑すべき敵を持ってはならない。あなたがたはあなたがたの敵を誇りとしなければならない。そのときはあなたがたの敵の成功が、あなたがたの成功ともなる。
反抗――それは奴隷の示す高貴である。あなたがたの示す高貴は、服従ということだ!
あなたがたは、あなたがたに好ましい一切の事を、まず命令として受け取らなければならない!
あなたがたの人生への愛が、あなたがたの最高の希望への愛であれ!そして、あなたがたの最高の希望は、人生の最高の思想であれ!
新しい偶像
国家とは、あらゆる冷ややかな怪物のなかで、最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。
それは嘘だ!かつてもろもろの民族を創造し、その頭上にひとつの信仰、ひとつの愛をかかげたのは、創造者たちであった。このようにして、かれらは生命に奉仕したのだ。
いま多数の人間に対しておとしあなを仕掛け、それを国家と呼んでいるのは、破壊者たちである。かれらはそのおとしあなの上に、一本の剣と百の欲望とを吊下げる。
ところが国家は、善と悪についてあらゆることばを駆使して、嘘をつく。――国家が何を語っても、それは嘘であり、――国家が何を持っていようと、それは盗んできたものだ。
あまりにも多数の者が生まれてくる。余計な人間たちのために国家は発明されたのだ!
「地上にはわたしより大いなるものはない。わたしは神が秩序を与える指である」――こうこの怪獣は咆える。その前にひざまずくのは、耳の長い驢馬ども、ないしは近視者のたぐいだけではない!
ああ、あなたがた大いなる魂よ、あなたがたの耳にも、国家はその暗鬱な嘘をささやく。ああ、国家は、惜しげなく自己をささげる豊かな心情の持ち主をすかさず見抜いているのだ!
そうだ、またあなたがた、古い神を征服した者たちよ!国家はあなたがたの心中をもすかさず見抜いている。あなたがたはその戦闘によって疲れている。そこでいまは、あなたがたのその疲労が、新しい偶像につかえることになる!
もしあなたがたが、かれをひれ伏して拝むなら、かれ、この新しい偶像は、あなたがたにすべてのものを与えようとする!こうしてかれはあなたがたの美徳の輝きと、あなたがたの誇りにみちたまなざしを買いとるわけだ。
善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺――それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。
この余計な人間たちを見るがいい!かれらは創意ある人たちの所産や賢者たちの数々の宝を盗みだし、この窃盗を教養と呼んでいる、――しまもこうした一切がかれらの病気となり、わざわいとなっている!
この余計な人間たちを見るがいい!かれらはつねに病気である。かれらは肝汁を吐き、それを新聞と呼ぶ。かれらはおたがいを貪り喰い、しかも消化することもできない。
この余計な人間たちを見るがいい!かれらは富を手に入れ、それによってますます貧しくなる。かれらは権力を欲する。
誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、――まるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。
物を持つことのすくない者は、それだけ心を奪われることもすくない。
市場の蝿
あなたは、いわゆる世の偉人どものひきおこす喧騒によって、耳をつぶされ、また世の小人どもの毒をもった針によって、刺されつづけているではないか?
孤独が終わるところに、市場がはじまる。そして、市場がはじまるところ、そこにまた大俳優たちのまきおこす騒ぎと、毒をもった蝿どものうなりがはじまる。
新しい価値の創造者はいる。この人のまわりに、世界は回転する。――目には見えぬが、回転する。しかし演技者のまわりには、大衆が回転し、光栄が回転する。
演技者は知恵を持っている。しかし知恵にともなうべき良心は、ほとんど持たない。演技者は、どうしたら最も効果的に人々に信仰を起こさせうるか、――人々をしてかれ自身を信じさせうるか、と考え、そうした手段を疑ったことがない。
あすは、ひとつの新しい信仰をいだき、あさっては、さらに新しい信仰を、かれはいだくだろう。かれは民衆と同じように、移り気で、変わりやすい天気に似ている。
変革する、――これがかれにとっては、証明なのだ。熱狂させる、――これがかれにとっては、説得なのだ。
繊細な耳にだけ聞こえる真理を、かれは取るにたらぬこと、虚偽にひとしいことと言う。
真理の求愛者たるあなたよ!真理は、いまだかつて強制者の腕に、身をまかせたことがないのだ。
わが友よ!のがれなさい、あなたの孤独のなかへ。あなたは毒のある蝿どもによって、刺されつづけているではないか?のがれなさい!強く、雄々しい風の吹きわたるかなたへ。
蝿たたきになるのは、あなたの運命ではない。
あなたは毒のある蝿に刺されて、疲れている。百か所も傷を負って、血を流しているではないか?しかもあなたの誇りは、これに対して怒ろうともしない。
蝿どもはすこしも悪意なく、あなたの血を欲しがっているのだ。かれらの血のない魂が血を渇望しているのだ、――だから、かれらが刺すのもまったく罪はない。
この意地汚い虫どもを殺すには、あなたの誇りはあまりに高い。だが、かれらの毒ある不正のすべてに堪えることが、あなたの不幸な運命とならないように気をつけるがいい!
また、親切気がありそうなふうを見せることもある。だが、それはいつも臆病者の利口さであった。そうだ、臆病者は利口なものだ!
いろいろと推察されれば、誰だっていかがわしい存在になってしまう。
わたしたちがある人間においてある点を見抜くことは、その点に火をつけることである。だから、小さな人間の場合、用心しなければならぬ!
わが友よ、のがれなさい、あなたの孤独のなかへ!かなたの、荒く雄々しい風の吹くところへ!蝿たたきとなるのはあなたの運命ではない。――
純潔
かれらはこの地上で、女と寝るよりましなことを知らないのだ。
かれらのあらゆる行動のかげから、欲情の牝犬が妬ましげにのぞいている。
純潔を守るのがつらい者には、純潔を思い切らせるべきなのだ。純潔が、地獄への道に――すなわち、魂の泥と淫蕩の道に――ならないためである。
たしかに、底抜けに純潔な人々もいるのである。かれらは、あなたがたよりも寛容であり、あなたがたよりも好んで大いに笑う。
友
他人へのわれわれの信仰は、われわれが自分の内部に、何を信じたいと思っているかを暴露する。われわれの友へのあこがれは、われわれの秘密の漏洩者だ。
われわれは、友を愛するが、しばしばそれが友への嫉妬を飛びこえるためにすぎないことがある。また自分に攻撃されやすい弱みがあることをかくすために、しばしばひとを攻撃し、敵をつくる。
友のなかにも敵を見て、この敵を敬わなければならない。あなたはあなたの友のごく近くにいて、しかもかれの立場に乗り移らないことができるか?
友のなかに、自分の最善の敵を持たなければならない。あなたがかれにさからうとき、あなたの気持が、かれにもっとも接近していなければならない。
あなたは、友のためには、どんなにわが身を美しく飾っても飾りすぎることはない。なぜなら、友にとって、あなたは超人への矢であり、あこがれであるべきだから。
友への同情は、堅い殻のしたにひそんでいるのがいい。同情を味わおうとして、噛めば歯が折れるほどでなければならない。そのくらいで同情に微妙な甘みがでてくるだろう。
あなたはあなたの友にとって、清澄な空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるだろうか?自分自身の鎖を解くことはできないが、しかし友にとっては解放者だというものも少なくない。
あなたは奴隷なのか?では、あなたは友になることができない。あなたは専制君主なのか?では、あなたは友を持つことはできない。
おお、男性のあなたがたよ、あなたがたの魂の貧しさ、魂の吝嗇ぶりよ!あなたがたが友に与えるぐらいのものは、わたしは敵にも与えよう、わたしはすこしも貧しくはなっていまい。
千の目標と一つの目標
その民族が困難だと考えるもの、それは、その民族にとって讃えられるべきものである。不可欠であるが、手にいれるのに困難だというもの、それが善と呼ばれるものである。
「真実を語ること、弓矢」
贈り与える徳
どうして金は最高の価値を持つようになったのだろう?それは、金がありふれたものでなく、実用的でなく、光を放って、しかもその輝きが柔和だからだ。金は、いつも自分自身を贈り与えている。
最高の徳はありふれてなく、実用的でなく、光を放って、しかもその輝きが柔和である。最高の徳は、贈り与える徳なのだ。
あなたがたの渇望は、すすんで犠牲となり、贈り物になりたいということだ。さればこそ、あなたがたはすべての富を、心のなかに積もうという渇望を持つわけだ。
飽くことなくあなたがたの心は宝や宝玉を得ようと努める。それもあなたがたの徳が、贈り与えようとする意志において、飽くことを知らないからだ。
あなたがたはあらゆる物を自分のほうへ、自分のなかへと、強引に取り込む。それもそうした物が、あなたがたの泉から、あなたがたの愛の贈り物として、ふたたび流れだすためなのだ。
そうだ、こうした贈り与える愛は、一切の価値を強奪する者とならなければならない。しかしこの我欲を、わたしは健康で神聖なものと呼ぶのである。――
それとは違った、別の我欲もある。あまりにも貧しい、飢えた、いつも盗もうとする我欲である。病める者の我欲、病める我欲である。
わが兄弟たちよ、言うがよい、わたしたちにとって劣悪、最も劣悪なことだと思われるものは、何だろう?それは退化ではないか?――贈り与える心が欠けているのを見ると、わたしたちはいつもそこに退化があると、推測する。
わたしたちの道は上昇する。種から超種にのぼって行く。「何もかも自分のため」という退化の心境こそ、私たちには恐怖である。
第三部
旅びと
われわれは結局、自分自身を体験するだけなのだ。
ただ戻ってくるだけだ。ついにわが家に戻ってくるだけだ。――わたし自身の「おのれ」が。
多くのものを見るためには、おのれを度外視することが必要だ。――この苛酷さがすべての登攀者には必要である。
通過
人々はあなたをわたしの猿と呼んでいる。口から泡をとばす狂人よ。しかしわたしはあなたのことを、わたしの泣き豚と呼ぶ、――不平がましく、ぶうぶう泣くことによって、あなたはせっかくのわたしの『愚神礼讃』をだいなしにしてしまう。
いったいあなたに泣き言を言わせた第一の原因は何だったのか?誰ひとりあなたに十分媚びてくれなかったということだ。
もはや愛することができないときは、――しずかに通り過ぎることだ!
三つの悪
肉欲――とらわれない心にとっては、無邪気な自由なもの、地上における楽園の幸福、すべての未来が、現在に寄せるあふれるばかりの感謝。
肉欲――衰弱した者には、甘ったるい毒となるが、獅子の意思を持つ者には、大いなる強心剤。また珍重され畏れられる酒の中の酒。
支配欲――きわめて冷酷非情な人間への灼熱の鞭。きわめて残酷な人間のために取っておきの残酷な拷問。いきながらの火あぶりの暗い炎。
支配欲――だが、高みにあるものが下方の権力を求めるとき、誰がそれを病的な欲求ときめつけることができるだろう!まさしく、このような欲求と下降には、なんら病的な衰弱は見られない!
いつも心配し、嘆息し、泣きごとを言う者、またどんなささやかな利益でも逃すまいとする者は、この我欲にとっては軽蔑すべきものと思われる。
この我欲はまた、気弱な不信感をもくだらぬものと見る。目つきと握手だけで事足りるのに、ことさら誓約を求める連中をくだらないと思う。そしてまた、すべてのあまりにも懐疑的な知恵をくだらないと思う。
重力の魔
そしてまことに、自分を愛することを学ぶということ、これは今日明日といった課題ではない。むしろこれこそ、あらゆる修行のなかで最も精妙な、ひとすじなわでいかない、究極の、最も辛抱のいる修行なのだ。
古い石の板と新しい石の板
最善の人間にも、なお嘔吐をもよおさせる何かがある。最善の人間といっても、なお克服さるべき或るものなのだ!――
あなたがたはただ創造するためにのみ、学ぶべきなのだ。
第四部
最も醜い人間
行動者だけが学ぶことができるのだ。
まず大胆に自分自身を信ずるがよい――おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに嘘になる。(196)
与え続ける者の危険は、羞恥を失うことだ。配りつづけている者の手と心には、配ってばかりいるために、たこができる。(夜の歌)